――原口さんに食べてもらう分は、ウチに置いてあった男モノの食器に盛り付けた。 この食器は潤と付き合っていた頃、この部屋に入り浸(びた)っていたアイツのために買い揃(そろ)えてあったものだ。 アイツとは別れてしまったけれど、物に罪(つみ)はないので食器は捨てずに置いてあった。 果たして、これを見た時に原口さんはどんな反応をするんだろうか? 私を〝未練たらしい女〟だと思うだろうか――?「――あ」 原口さんがサッパリした顔でダイニングに戻ってきた。「洗面所お借りしました。――シェーバーがないのは……仕方ないですよねえ」「あるワケないじゃないですか、そんなの」 私は真顔でツッコんだ。女の一人暮らしでしかも、この二年間男性が(父も含めて)この部屋に泊まっていったことなんてないのだから。「ですよねえ。ああ、僕ヒゲは濃くないので大丈夫です」 何が「大丈夫」なんだかよく分からないけれど、彼が納得しているならそれでいいか。「――じゃ、座って下さい。ゴハン食べましょう、ね」 私と原口さんは二人掛けテーブルに向かい合わせで座り、二人で「いただきます」と手を合わせてから食べ始めた。 ……のはいいとして。やっぱりというか何というか、原口さんから男モノの食器(主にお茶碗(わん)と箸)についてツッコまれた。「そういえば、どうしてこの部屋に男モノの食器が置いてあるんですか? 先生って一人暮らしですよね。お皿やグラスはともかく」 友達や家族がよく遊びに来るし、原口さんだって仕事でちょくちょく訪(たず)ねてくるので、お皿やグラス・カップ類が多くストックしてあるのは不思議に思われなかったらしい。「ああ。それ、元々は潤のために買い揃えてあったんですけど。物に罪はないし、捨てるの勿体ないでしょ? まだ使えるのに」 我ながら、言っていることが所帯(しょたい)じみているなと思う。結婚どころか同棲(どうせい)している彼氏もいないのに、主婦みたいだ。「――そんなことより、味はどうですか?」 彼に私の手料理を食べてもらうのは初めてなので、お味噌汁をすすっている彼に感想を訊いた。「うまいっす。先生って家庭的なんですね。料理は上手だし、片付けも得意みたいだし」「いえいえ! そんな」 私は恐縮したけれど、内心ではすごく嬉しかった。……ただ、「先生って〝意外と〟家庭的」と言われ
「うちの母も、よく二日酔いになる父のためにシジミ汁を作ってました。私が料理上手なんだとしたら、きっと母に似たんだと思います」「なるほど、そうなんですか。――お父様のご職業は?」 原口さんから、私の家族のことを訊かれたのも初めてだ。なんだかお見合いの時みたいな(経験はないけど)妙な気分になる。「父は大手商社に勤(つと)めるサラリーマンです。原口さんと一緒で下戸なんですけど、接待とか仕事上のお付き合いとかで飲まされることが多いらしくて……。会社員の人って大変ですね」 原口さんも同じ会社員だ。業種こそ違うけど、少なからずお父さんにシンパシーを感じたらしく、「はい」と頷いている。「私も父から、『作家なんて安定しない仕事なんだから、もっと実直な進路(みち)を選べ』って昔言われたんです。高校生の時だったと思いますけど」「そうですね……。確かに、無事デビューできても安定して売れ続ける作家さんは数少ないと思います」「でも昨日、私がバイトしてる本屋で私の最新刊、発売初日で入荷(にゅうか)した分が完売したんですよ! すごいと思いません!?」 私だって天狗(テング)にはなりたくないけれど、これだけは胸を張って言いたかった。「初日入荷分が完売!? それはすごいことですよ! もしかしたら重版されるかも」「でしょ!? だから私、自分の仕事に誇(ほこ)りを持ってるんです。父も最近は、私が作家でいることを認めてくれてるみたいで」「よかったですね、先生」「はい」 家族に内緒で作家をしているよりも、家族に応援してもらいながら執筆の仕事ができる方が断然いい。 ――昨夜から私と原口さんの距離が、ほんの少し縮(ちぢ)まった気がする。 私は原口さんの今まで知らなかった面を、原口さんは私の過去や家族のことを知れた。 本当にほんの少しだけど、彼に近付くことができたと思ってもいいのかな……?
「――あっ、ねえ原口さん。ちなみに玉子焼きは甘いのとしょっぱい系、どっちが好(す)きですか?」 そういえば、彼の食べ物の好(この)みだって知らなかったな。この際(さい)だから、思い切って訊いてみようっと。「しょっぱい方ですね。甘いものは好きなんですけど、玉子焼きの甘いのだけは好きじゃなくて」「えっ、ホントに? 私もなんです! お寿司屋さんでも玉子は頼まないんですよね。甘いから」 すごい、何たる偶然! いや運命!? こりゃテンションも上がるってもんだ。「今度原口さんがウチでゴハン食べる時は、玉子焼き作りますね!」 別に「またウチに泊まっていって」っていう意味じゃなく、あくまでもお腹をすかせていたら放っておけないから。「本当ですか? 楽しみにしてます」 すると彼がフニャリと笑った。心からの喜びが現(あらわ)れたその笑顔に、私のハートは鷲(わし)掴(づか)みにされてしまう。――「楽しみ」って言われた! なんか急に原口さんの彼女になったみたい!「そそそそ、そんな! 楽しみにしてもらえるほどのものじゃないですけど。頑張って作りますね」 照れをごまかすため、私はすごい勢いで食べ進める。「……なんか、こういう朝の風景っていいですよね。〝共働きの新婚家庭〟みたいで」「はい……」 ほのぼのと言う原口さんに、私も思わず同意する。いつか、彼の言葉が現実になったらいいんだけどな……。「――ごちそうさまでした」 気がつくと、原口さんは朝ゴハンをきれいに平らげていた。「原口さん、ゴハンのお代わりは?」 私はもうお腹いっぱいだけれど,彼は遠慮しているだけなんじゃないかと思い、一応訊ねてみる。「いえ、もう十分頂きましたから。ありがとうございます」「そうですよね」 彼の分のゴハンが入っていたのは男モノの大きめのお茶碗だ。二日酔いでそれ一杯分食べたら十分だろう。 私が二人分の食器を流しに運び、手早く洗いものを済ませている間に、原口さんも帰り支度を済ませていた。「じゃあ、僕はそろそろ失礼します」 カバンを手に、彼は玄関へ。私も出勤時間までには少し時間があるので、彼を見送ることにした。「蒲生先生の件は、島倉編集長とよく相談してどうにか解決します。なので先生は心配なさらずに、ご自分のお仕事に集中して下さいね」「はい、分かりました。――あの、どうなったか、私
玄関のドアがパタンと閉まる。少しだけ新婚気分に浸(ひた)っていた私は、現実に引き戻された。 時刻はもうじき八時半。そろそろ家を出ないとバイトに遅刻する。「――よしっ! 行くぞ!」 仕事着の上から薄手のカーディガンを羽織ると、気合いを入れるために両方の頬をパンッと叩いた。 トートバッグを提げ、仕事用の黒いスニーカーを履いて、キチンと戸締りをすると朝の爽やかな空気を吸いこみ、町へと飛び出して行った。 書店へ向かう道すがら、私は考えていた。 私は多分、自分の気持ちをうまく隠せていないから、原口さんにも私の想いはダダ漏れだと思う。……じゃあ原口さんは? 今のところ、彼が私のことを一人の女として見てくれているかは微妙なところ。それに、琴音先生との関係だってハッキリしないままだ。 私はこの恋に、望みを持っていてもいいのかな――? * * * * ――その日から、私はバイト中にクレームを言われる回数が激減(げきげん)した。 お客様にご迷惑をかけてしまうことも少なくなり、清塚店長は私の働きぶりを温かい目で見守って下さるようになった。秘密のパソコン特訓が、功(こう)を奏(そう)しているらしい。「――奈美ちゃん、このごろ仕事が早くなったんじゃない?」 数日後。久しぶりにシフトが一緒になった由佳ちゃんが、バイト帰りに私をそう評価してくれた。「そうかなぁ? ……いやいや! 私なんかまだまだだよー」 謙遜はしたものの、やっぱり喜びは隠せない。 今日もお客様からご予約のあった商品の確認をお願いされたけれど、私は数日前と違って一人でどうにかやり遂(と)げることができた。「店長も、奈美ちゃんのこと見直してくれたみたいだし?」「うん。そうみたい」「恋の力って偉大(いだい)だよねえ……」「…………」 うっとりと言う由佳ちゃんに、私は絶句(ぜっく)した。思いっきり図星だったからである。 別に私は原口さんのために頑張っているわけじゃないけど。彼が間接的に私の頑張りの原動力(みなもと)になっていることは間違いないから。「最新刊も初日に完売だったしねー」「うん。おかげさまで、早速重版かかったって」「重版!? スゴいじゃん!」 由佳ちゃんが目をまん丸くした。それ以上に驚いたのが、誰でもないこの私だった。 昨夜、原口さんから電話がかかってきたの
「この調子でさ、恋も仕事も頑張るんだよ! ……ああでも、本業の方が忙しくなったらバイトは続けていけるかどうか分かんないよねえ」「うん……、そうだね」 ――そっか。専業作家としてやっていけるようになったら、バイトを続けていく必要もなくなっちゃうんだ……。 原口さんは、私がいずれは専業としてやっていくことを望んでるんだろうか? ――私だっていつかは小説だけで食べていけるようになりたい。でも、それは結婚して家庭を持ってからでいいかな、と思っている。 まだ当分、バイトは辞(や)めたくない。この仕事にやり甲斐を感じているし、何より由佳ちゃんや他の従業員さん達と一緒に働けなくなるのが惜(お)しい。「大丈夫だよぉ、奈美ちゃん。そんなに暗い顔しないで!」「……えっ?」「心配しなくてもあたし、一緒に働けなくなっても奈美ちゃんの親友だし、巻田ナミ先生の大ファンでいるから! ねっ!?」 由佳ちゃんには、私がどんなことで悩んでたのか分かったのかな? 私を元気づけようと、彼女らしい言葉で励ましてくれる。「……ありがと、由佳ちゃん。――でも私、バイト辞めないよ」 胸がポカポカとあったかくなり、こみ上げそうになった嬉し涙を堪(こら)えるように、私はキッパリと宣言した。「えっ、そうなの? なぁんだ、よかった」 由佳ちゃんがホッと胸を撫で下ろしたように笑顔で言う。……と、次の瞬間。 ――ピンポン ♪「……ん?」 ケータイの短い着信音が鳴った。メールかな? LINE(ライン)かな? 私は自分のスマホをチェックしたけど、マナーモードのままなので鳴るわけがなかった。「……あっ、あたしのスマホだ。ちょっとゴメン!」 由佳ちゃんが立ち止まり、受信したメッセージに返信していた(〝歩きスマホ〟は危(あぶ)ないからね)。「――ゴメン、奈美ちゃん! メッセージ、彼氏からだった。『今から一緒にゴハン行こう』って」「えっ!? 由佳ちゃん、彼氏いたの!?」 初耳だった。彼女との友情は二年になるけれど、そんな話は一度もしてくれたことがない。「うん。まだ付き合って二ヶ月くらいかな。中学校の先生なんだけど、合コンで意気(いき)投合(とうごう)したんだ♪」「ええっ!? いつの間に……」 私が執筆活動にバイトにと勤(いそ)しんでいる間に、親友がリア充になっていたなんて…
「それにさぁ、ナミ先生は恋愛小説書いてるじゃん? 話した内容、ネタにされるのもイヤだったしさぁ」「しないよ、そんなこと!」 私はムキになって否定した。――でも、ぶっちゃけて言えば、参考にできるものならしてみたいかも。……なんて思ってしまう作家の性(さが)が恨めしい。「分かった分かった! 冗談だよ冗談っ☆ んじゃ、あたしはここで。奈美ちゃん、またねー」「うん、お疲れさま」 ――私は由佳ちゃんと別れ、帰り道をブラブラ歩いていた。 この道には〈きよづか書店〉が入っている商店街もショッピングビルもある。――食べるものはまだ買わなくていいはずなので、帰るにもちょっと早いし、ウィンドウショッピングでもして帰ろう、と思って町を歩いていたところ――。「あれ? 奈美じゃね?」 もうずっと聞いていなかったけれど、記憶には残っているその声に、私は不意に振り返った。――この声、まさか……。「潤……なの?」 声の主は今年大学を卒業し、社会人になっているらしい(〝らしい〟というのは、学部が違っていたので別れた後は全く接点がなくなったからである)元カレの井上潤だった。 学生時代は茶髪で長かった髪は短くなり、黒っぽく染められて小ザッパリしているし、着ているのも社会人らしいグレーのフレッシャーズスーツだ。 でも、いくら外見が変わっても彼がまとうチャラい雰囲気(ふんいき)は二年前と変わっていないから、私にはすぐ分かった。「あ、やっぱ奈美だ。変わってねーな、お前は」「……変わってないのはアンタもでしょ」 今の私達は赤の他人なんだから、馴(な)れ馴れしく話しかけないでほしい。――まあ、それに反応する私も私だけど。「っていうか、なんでアンタがここにいんのよ?」 ここから私の住むマンションは目と鼻の先だ。学生時代に潤が住んでいたのはこの近くじゃなかったはずだけど……。「ああ。オレな、大学卒業(で)てから一人暮らし始めてさあ。んで、住むことになった部屋がたまたまお前んちの近くになったんだよ」「たまたま、ねえ」 本当だろうか? 私がこの町に住んでいることを覚えていたから近くの部屋に決めたとしか思えない。「就職はできたんだ? 職種は何?」 元カレとはいえ、潤がニートじゃないことには安心したので、とりあえず訊いてみる。とはいえ、職種なんて私の知ったこっちゃないけど。「営
「〝あっそ〟って何だよ。自分から訊いといて素(そ)っ気(け)ねえのな。……まあいいや。お前はまだバイト続けてんだ?」「うん……、そうだけど?」 私はまた素っ気なく返した。 どうせ潤は本を読むのが嫌いだから、ウチの書店に買いにきたことなんかないくせに。雑誌を買うくらいなら、コンビニでこと足(た)りるだろうし。「せっかく夢叶(かな)って作家になっても、収入が安定しねえなんて大変だな。――あ、本屋のバイトも非(ひ)正(せい)規(き)雇用だっけか」 私は色んな意味でムカついた。 一つ目。お父さんと同じようなことを、この男に言われたこと。 二つ目。社会に出たばっかりのヤツに、非正規雇用をバカにされたこと。 三つ目。とどのつまり、この男が私に何を言いたいのか全く分からないこと――。「まあ、営業の仕事も給料は歩合(ぶあい)制だから、あんまり安定してるとは言えねえけどな」「……それじゃ説得力ないじゃん」 自虐(じぎゃく)をまじえて肩をすくめる潤に、私は呆(あき)れてツッコんだ。「私(あたし)は後悔してないよ。確かに今は兼業じゃないと食べていけないけど、自分のやりたいことを仕事にできてるって幸せなことだからさ」 自分の作品の原稿料と印税の収入だけじゃ心(こころ)許(もと)ないからと、原口さんは時々、他の作家さんとの合作やアンソロジーの仕事も私にやらせてくれる。 それでも収入が安定しないことに変わりはないのだけれど……。「そうなん? まあオレは、お前がそれで満足してるんならいいんだけどさあ」 ――潤と話していると、何だか二年前に戻った気がする。それは決してイヤな感覚ではなく、二年前はこのユルい関係が心地(ここち)よかったりしたのだ。――そう、この男が私に、あんな選択さえ迫らなければ……。「でもお前、あの後考えたことねえ? 〝もしあの時、別の選択肢(し)を選んでたら〟って」「え…………」 この台詞(セリフ)でやっと、私は潤の言いたいことが理解できた。彼はまだ私に未練があり、そして私が小説を選んだことを納得していないのだと。「……なかった、と思う……けど」 答えてから、考える。もしあの時、小説じゃなく潤の方を選んでいたら……と。 この男は私に小説家を辞めてほしがっていた。――私は果たして、彼の望む通りに志(こころざし)半(なか)ばで筆を折ること
「それは……、今すぐには返事できないよ。私、今好きな人がいるから。担当編集者の人」「そっか。付き合ってんの、そいつと?」「ううん、まだ私の片想い……だと思うけど」 私は一体、どうして悩んでいるんだろう? 原口さんのことは、まだ片想いだから諦められると思っているから? 潤とはヒドい別れ方をしたせいで、彼に申し訳なく思っているから? でも、まだこの男に未練があるのかと自分自身に愕然となる。せっかく、原口さんへの恋を頑張ると決めたばかりなのに。こんなことで心が揺れ動くなんてどうかしている。「…………分かった。オレ、いい返事期待してっから。連絡先変わってねぇから、心決まったら連絡して」「うん……」 ――潤と別れてから、私は自分でも何をやっているんだろうと呆れた。 元カレと再会して、好きな人がいるにも関わらず復縁を迫られて、心がグラついた。片想いだからって、本気で好きなんだと気づいた相手のことをそんな簡単に諦められるわけがないのに。 潤と元サヤになったところで、今度こそうまくやっていけるとは限らないのに。また同じことの繰り返しになるだけかもしれないのに――。「…………はぁ……っ。何やってんだ、あたしは」 ため息をつきながら、マンションの近くまで来ると――。「巻田先生、お疲れさまです」「……あ」 そこには原口さんが立っていて、私に気づくと丁寧(ていねい)に挨拶してくれた。
「――さて、と。まだ時間も早いですけど、DVDでも観ます?」 私はソファーから立ち上がると、ミモレ丈(たけ)のデニムスカートの裾を揺らしてTVラックの所まで行き、彼に訊ねる。 今日は映画を観てきたけれど、この部屋の中での時間の潰し方は限られる。TVを観るか、DVDを観るか、仕事するか。それとも…………。「いいですけど。ちなみに、どんなジャンルですか?」「ワンパターンで申し訳ないんですけど、恋愛映画……。洋画と邦画、どっちもありますけど」 これでも恋愛小説家である。他の作家さんの恋愛小説だけでなく、時にはコミックやTVドラマ・映画などを作品の参考にすることもあるのだ。そういう意味で、恋愛映画のDVDは資料としてこの部屋には豊富に揃(そろ)っている。「じゃあ……、邦画の方で」「了解(ラジャー)☆」 私が選んだのは、〝恋愛映画のカリスマ〟と名高い若手映画監督がメガホンをとった映画。今日観て来た映画とは違う、ドラマチックな演出をすることで有名な人の作品だ。 ――でも見始めてから、この作品を選んだことを後悔した。「「わ…………」」 途中で際(きわ)どいラブシーンが流れて、何となく気まずい空気になったのは言うまでもない。 あまりにも生々しすぎるラブシーンを直視できず、TV画面から視線を逸らしてチラッと隣りを見遣れば、原口さんは瞬(まばた)きひとつせずに画面に釘付けになっていた。 ……目、大丈夫かな? ドライアイにならない? 私は彼の顔の前に手をかざして上下に動かしてみる。「お~い、起きてますかぁ?」「…………ぅわっ!? ビックリした!」 ハッと我に返った彼のガチのビックリ顔がおかしくて、私は思わず吹き出した。「ハハハ……っ! めっちゃ見入ってましたねー」「スミマセン」 お家デート中に彼女の存在そっちのけで映画に見入っちゃうなんて、なんて彼氏だ。……まあでも、面白いものが見られたからよしとしよう。「――あ、終わった。ちょっと刺激強すぎたかな……」 映画は二時間足らずで終わった。プレイヤーから出したディスクをケースに戻し、次に観る時はもう少し刺激の少ない映画にしようと思った。「お風呂のお湯、入れてこようっと。――先に入りますか?」 この調子だと、今日も彼はこの部屋に泊まっていくことになりそうなので、私はバスルームに向かいがてら彼に訊ね
「原口さんだって、もうちょっと広い部屋の方が落ち着けるでしょ? ベッドだって狭いし」「だったら、ベッドだけシングルからセミダブルに変えたらいいんじゃないですか?」 彼の提案は身もフタもない。せっかく「あなたの部屋の近くに引っ越したい」って言うつもりだったのに。「ここの寝室は狭いから、セミは置けないんです。だからどっちみち引っ越すことになるの。……まあ、狭いベッドの方が、ベッタリくっついていられるから私もいいんですけど」「そっ……、そういう意味で言ったんじゃ………」 ちょっと意味深な視線を送ると、彼は真っ赤になって慌てた。私より恋愛慣れしているわりには、結構ピュアだったりするのだ。「冗談ですって。でも、引っ越すなら赤坂の方の物件がいいな。原口さんのお部屋の近く」「え……」「その時は、お手伝いよろしく☆」「…………はい」 私の方が年下なのに、彼は腰が低いというか、立場が弱いというか……。私に何か頼まれると、「イヤです」とは言いにくいらしい。話し方だって、未だに敬語が抜けないし。 しばらく話し込んでいたら、マグカップに入っていたミルクティーはもうほとんど飲み終えつつあった。私は彼の肩にそっと頭をもたげる。「――あ、そういえば美加が、『いつ結婚式の予約入れてくれるの?』って言ってたんですけど」「美加さんって……、こないだ取材させて頂いたウェディングプランナーのお友達ですか?」
――私と原口さんが代々木のにある私のマンションに着いたのは、それから三十分後のことだった。 ちょっと空(す)いていた電車の中では、二人で隣り合って座席に座ることができた。そこで私達が話していたのは今書いている原稿の進み具合とか、「入った印税をどう使うのか」とか、そんなことだった。「――どうぞ、上がって下さい。コーヒーか何か淹れましょうか?」 私は彼に来客用スリッパを出してから、リビングのソファーにバッグを置いた。「じゃ、紅茶がいいなあ。ミルクティーで」「はーい。私の分も用意するんで、ちょっと待ってて下さいね」 ソファーに腰を下ろした彼のオーダーを聞き、私はキッチンに足を向けた。備え付けの食器棚からマグカップと紅茶のティーバッグを二つずつ出して、水をいっぱいにした電気ケトルのスイッチを押す。 カップのセッティングをしてから、「お茶うけもあった方がいいかな」と思った。――お菓子、何か入ってたっけ? あっ、確かチョコチップクッキーが残っていたはず……。「――お待たせ!」 数分後、私は二人分のミルクティーのマグカップとクッキーの載(の)ったお皿をお盆に載せ、リビングに戻った。「ありがとうございます。……あ、クッキーも? さすが先生、気が利(き)くなあ」 原口さんはお礼を言ってカップを受け取ったけれど。……ん? 「気が利く」ってどういう意味? いつもは気が利かないって遠回しに言っているのか、それとも女性らしい気配りができているっていう褒め言葉なのか……。解釈が難しいところだ。何せ、彼はS入ってるからなあ。「そんなに悩まなくても……。素直な褒め言葉ですから」 首を傾げている私に、苦笑いしながら彼はフォローを入れた。「ああ、そうなんですね。……別に、何かお茶うけがあった方がいいかなーと思っただけです」 ……本当に、私って可愛くない。褒められても素直に喜べなくて、こんな憎まれ口叩いて。「いただきます」 一人しょげている私をよそに、彼はおいしそうにミルクティーをすすり、お皿の上のクッキーをつまむ。下手に慰めようとしないのは、彼なりの優しさなのだろう。今の私には、その方がありがたい。それとも、ただマイペースなだけなのか……。「――それにしても、この部屋って狭いですよね。ぼちぼち引っ越そうかな」「えっ、引っ越すんですか?」 私も紅茶をすすりな
「ね? 可愛げないでしょ?」 私が同意を求めると、彼はそれを力いっぱい否定した。「いえいえ、そんなことないですよ! 先生はご自分で思ってるよりずっと可愛いし、魅力的な女性です」「……はあ、それはどうも」 そのあまりの熱弁ぶりに、私は目を丸くした。彼の私への想いはそんなに強いのかと、改めて気づかされる。「…………すみません、ついアツくなっちゃって。でも、先生は十分(じゅうぶん)女性としての色気はあるのに無防備すぎるんです」「えっ、どんなところが?」 私って自覚なさすぎるんだろうか? それじゃあ、付き合う前から私は気づかないうちに、彼を惑(まど)わせていたかもしれないってこと……?「ある朝原稿を受け取りに行ったら、ショートパンツ姿でナマ足出してるし。酔っ払って泊めてもらった夜には、至近距離(しきんきょり)でシャンプーのいい香りさせてるし。こっちは理性保(たも)つのが大変だったんですから」「うう……っ!」 思い当たるフシがいっぱいありすぎて、私は思わず両手で顔を覆(おお)った。当たり前だけれど、やっぱり原口さん(この人)も成人男性だったんだ。私の悩ましい姿の数々(かずかず)を目にしながら、一人悶絶(もんぜつ)していたなんて。「……手、出そうとは思わなかったんですか?」 恥を忍んで、私は訊いてみる。我慢するくらいなら、いっそ触れてくれればよかったのに。「出せるワケないでしょ? 自分の欲求に任せて手を出したら変質者とおんなじです。そんなマネ、俺はできませんっ!」 鼻息も荒く、原口さんが吠えた。そして、彼が〝俺〟って言うの、久しぶりに聞いた。 どうでもいいけど、ここは駅のホームで周りには人がいっぱいいる。さっきの原口さんのシャウトに驚いた人達が、なんだなんだとこっちを見ているので,私は今かなり恥ずかしい。「……分かりました! っていうか原口さん、声大きいから! エキサイトしすぎ!」 小声でたしなめると、彼はやっと我に返った。「はっ……!? あ……、スミマセン」 恥ずかしさで顔を赤らめ、神妙に縮こまる彼。なんだかおかしかった。私は思わずククッと笑い出してしまう。「……え? なんかおかしいですか?」「ううん、別にっ!」 そう言いながらも完全にツボった私の笑いはなかなか治まらず、私は彼のいない方を向いて声を殺して笑い続けた。彼もムッとするど
「……まあ、いいですけど。明日も仕事休みですし」 明日は日曜日。いわゆる〝会社員〟である原口さんはお休みだ。「ナミ先生は、お仕事は? 書店さんの方の」 彼は担当編集者なので、私の作家としての方の仕事はもちろん把握(はあく)している。今は、ウェディングプランナーとして働いている友達・美加をモデルにした新作の小説を執筆中だ。 でも、もう一つの仕事である〈きよづか書店〉でのバイトのスケジュールまでは訊かない。デートの約束をする時だって、私からしか話さない。「私は明日出勤日ですけど。もし私の出勤時間に起きられなかったら、原口さんは寝てていいですよ。合鍵あるんだし,戸締りだけちゃんとして帰ってくれたらいいですから」「そんなに僕に泊まってってほしいんですか? 先生って今まで、ロクな恋愛してこなかったんですね」 ……出た、久々のS発言! 別に彼にベッタリしたいわけじゃないんだけど……。「そっ……、そんなことは――」「ない」とは言い切れない。しばし自分の頭の中の引き出しをひっくり返し、私はこれまでの自分の恋愛を振り返ってみた。「……うん、確かにそうかも」 情けないことに、彼の指摘は思いっきり的(まと)を射(い)ていた。「原口さんの言う通りかも。今まで私、頑張って恋愛してきた気がするんです。『恋愛小説家なんだから、恋しなきゃ!』って。で、頑張ってロクでもない男につかまって失敗して」「あ……、当たってたんですね。悪気はなかったんです。すみません」「マズい」と思ったのか、彼は慌てて私に謝った。 悪態(あくたい)はついても、悪役にはなりきれない。そこが彼の憎めないところだ。「ううん、別に何とも思ってないですから。……まあ、十代の頃は別として、大人になってからホントに気心知れた相手と付き合ったのは原口さんが初めてかも。私って可愛げないし」 最後はもうほぼ自虐(じぎゃく)ぎみに言って、私は肩をすくめた。「僕はそんなことないと思いますけど……。〝可愛げない〟って、どんなところが?」 原口さんは首を傾げる。「だって、酒豪でしょ? 言いたいことズケズケ言うでしょ? それに甘え下手でしょ? 泣くことだってあんまりないし」 私は思い当たるフシを、指を折りながら挙げていった。酔ってしなだれかかることもない。男の人に甘えることもあまりない。モジモジもあまりしない。
原口さんと交際するようになって、彼の私生活(プライベート)も少しずつ分かってきた。彼は運転免許証を持っていないため、車の運転ができない。通勤にも私のマンションに来る時にも、公共の交通機関を利用しているらしい。 もちろん、私とデートする時にも……。でも今までだって、車を運転できるような男性と交際したことはないので、私はそんなことちっとも気にならない。 そして、彼が一人暮らしをしているマンションは赤坂(あかさか)にある。お部屋は十五階建てマンションの五階にあるけれど、エレベーター付き。 出身は前にも聞いたけれど兵庫県(ひょうごけん)の南東部。でも神戸(こうべ)じゃない。どうりでたまに関西(かんさい)弁がポロっと出るわけだ。彼は大学進学を機に上京して来て、それ以来はなるべく関西弁を使わないように、極力(きょくりょく)標準語で話すようにしていたけど、それでも生まれついたネイティブな話し方は何かの拍子につい出てしまうものらしい。
「まあ……、一応考えときます」 私自身も作家として、もっと広い世界を見てみたい。もっと幅広いジャンルにもチャレンジしてみたい。だから専属作家になろうとは思わない。……でも、まだ原口さん以外の編集者さんと組むのには不安がある。 まだ当分は、今の状態のままでいい。彼はいつも私の意志を尊重してくれるから、ムリに〝専属〟を押しつけるつもりは最初からなかったのだろう。「そうですか。まあ、最終的には先生のご意志に任せるので、ムリに『専属作家になれ』とは言いませんけど」「やっぱりね。あなたならきっとそう言うだろうと思ってました」「〝やっぱり〟って何が?」 自己完結で納得していると,すかさず原口さんからツッコミが入った。「ううん,何でもないです。――もう少ししたら、お店出ましょうか」 私達のお皿の中身は、どちらも残り少ない。コーヒーも飲み干してしまったし、あまり長居してしまうのはお店の迷惑になる。「そうですね……。じゃ、お会計は先生持ちで」「ええ~~!?」 私は形だけのブーイング。でも、これはこの人と付き合い始めてからはいつものことだ。「〝ええ~!?〟って何ですか。印税たくさん入ったんでしょ? 白々(しらじら)しいアピールはやめましょうよ」「……バレたか」 本当は最初から私がご馳走(ちそう)するつもりでいたのだ。冗談で言ったのだと、彼にはバッチリ見抜かれていた。でもこういう時、冷静に的確にツッコんでくれる。そんな彼が私は大好きだ。 ――何やかんやで私が支払いを済ませ、店を出るともう外は暗くなっている。「〝秋の日はつるべ落とし〟って言いますけど、このごろ日が暮れるの早いですねー」「ホントにね。っていうか、今どきの若い人はそんな言い回し使いませんよ。ナミ先生、さすがは作家さんですね」「……どういう意味?」 褒めているのかイヤミで言ったのか分からずに、私がキョトンとしていると。「ボキャブラリーが豊富っていう意味です」 とりあえず褒めているらしいと分かって、嬉しい反面ちょっとカチンときた。「もう! だったらストレートに褒めて下さいよ! ホンっトに素直じゃないんだから」 彼の愛情は分かりづらいから、誤解を招きやすい。でも私だけは、彼の言葉の裏側に潜む優しさをちゃんと理解してあげたいと思う。
「でも最近、自分がやっと一人前の作家になったような気がしてきてます。私自身、本の売れ行きが予想をはるかに超えててビックリしちゃって。こないだ入った印税なんか、ゼロの数が多すぎて『これ、金額間違ってるんじゃない?』って思ったくらい」 運ばれてきたハヤシライスを食べながら、私は嬉しさを隠しきれずにそう言った。この話は大げさではなく、事実である。私の銀行口座の残高(ざんだか)は今、大変なことになっているのだ。万から上のケタが四ケタってどういうこと? ……みたいな。「それだけ印税入ってくるようになったら、もう専業作家になってもいい頃なんじゃないですか? 書くことに専念して」「えっ、専業?」「はい。人気作家になったら、他の出版社さんからも執筆依頼が来るようになります。先生は原稿を手書きするので、そうなると今まで以上に執筆時間を長めに確保する必要が出てきます」「はあ……」 原口さんの言いたいことは分かる。パソコン書きの作家さんなら、いくらでも執筆時間の都合はつけられる。――少なくとも、手書きの作家よりは。「これまで通り働きながら執筆活動を続けようと思ったら、睡眠時間を削(けず)らないといけなくなります。それじゃ先生、最悪の場合は体壊しますよ」 彼氏としても編集者としても、私のことを心配してくれているのは嬉しい。でも……。「それだけ心配してくれてるのはすごくありがたいんですけど。私、バイトは続けていきたいです。友達もいるし、作家と書店員を両立する上での役得もあるし」「先生の気持ちは分からなくもないですけど。無理はしてほしくない――」「大丈夫。執筆時間は何とか都合つけて頑張りますから」 彼の思いやりには感謝したい。でも、ちょっと心配しすぎな彼の言葉を遮って、私は彼を宥(なだ)めた。「そうですか? 分かりました。――この問題の解決策(さく)が、実は一つだけあるんですけど」「解決策って?」 私は食事の手を止め、彼に首を傾げてみせる。「先生に、我が洛陽社の専属作家になってもらうこと、です」 私は〝目からウロコ〟とばかりに目を瞠った。でも、言い出した当人の原口さんはあまり気が進まないようだ。「なるほど。……でも原口さん自身は、あんまり薦(すす)めたくないみたいですね」「はあ。僕としては、〝作家という職業は自由業だ〟と思ってるんで。先生にはいろいろな出
――私(あたし)と原口さんが付き合い始めてから二ヶ月半が過ぎ、季節は秋になった。 今日は土曜日で私のバイトもお休み。というわけで、原口さんと映画デートを楽しんでいる。「――ナミ先生、映画面白(おもしろ)かったですね」 シアターから出るなり、彼はほこほこ顔で観ていた映画の感想を漏らした。「うん。あたし原作も好きなんですけど、映画はまた違う面白さがありましたよね。脚本家さんのウデかなあ」「あと、監督(かんとく)さんの、ね」 私達の会話は、傍(はた)から見れば映画評論家(ひょうろんか)同士の会話みたいに聞こえるだろうか。――まあ、当たらずとも遠からずなのだけれど。 今日私達が観てきた映画は、私も本を出させてもらっていた〈ガーネット文庫〉の先輩作家さん・岸田(きしだ)